ペテロの手紙Ⅱ 2章1~21節
高松教会 村上貴志
偽教師たちは、反面教師?私たちが、そうならないために現れたのかもしれません。「私たちの、罪赦された者としての歩み」は、犬や豚と同じです。思いと異なっていれば、短絡的に相手を罵ったり、批判したり。そこに神の愛は、存在していません。
愛をもって注意をしたとしても、…。「あなたも、そうだ!」と、反論されると、…。それに腹を立て、相手の事を思っているはずが、大ゲンカ。不信仰な者の歩みと何ら変わりない。これが、現実です。
また、相手が、思って下さっているのに。素直に、受けとめる事が出来ないのです。「罪赦された者が、再び罪に誘われていくのです。」
これが、現実なのですが、この誤った現実に、叫びを挙げる声があります。神さまは、私たちに本当に必要な正しさを、常に与えて下さるのです。民数記22章の出来事を、引用します。取るに足らないロバの声が、「愛する思い」を、伝えるのです。
それでは、「再び、罪に誘われる神の民」、どのような叫び声が聞こえるのでしょうか?目の前の相手に、慈しみを持ちながらも、怒りの炎をたぎらせてしまうような者に。怒りが込み上げてきたなら、神さまも、イエスさまも、そっちのけ。「義」なる正しさにも、目を向けないような、「自分を持ち込み、主を拒否する」者に。私たちの心の中にあるのでしょうか?バラムの事を思ったようなロバの声が?再び、罪に誘われた者に。滅びに至る、神の愛無き、怒りの炎を燃やす時。
わたしの状況が、「神の愛の中」に有るのかどうか、聞いて来る声が有るのです。「主の道を進みなさい。」
主の道を歩むと言う事は、「義しさのみ。力のみ」ではありません。受け入れ・忍耐しつつ、主の十字架を背負い、共に歩むという選択肢を、私の心の中の声は、教えてくれているのです。