ルカによる福音書5章33-39節
高松教会 村上貴志
主の大いなる御業を見続けても、律法学者やパリサイ人たちは、ぶつぶつとつぶやきました。認めたくない。見ないふりをする。騒ぎ立てる。
残念ながら、判っていないのです。神の御子が、神さまが、共に居て下さっている事に。旧約聖書では、ホセア2章・エゼキエル16章・イザヤ54章62章・エレミヤ書2章と、神さまとイスラエルの契約の表象として花婿と花嫁の譬を挙げます。もう、祝福の中に入れられているのに。備えの断食。今は、必要ないのです。充分に恵みを受け取り、祝福に与る時なのです。この花婿である主イエスと一緒にいる恵みの時に、気づかないのは、イエスさまにとって、とても、残念な事であったのかも知れません。
というよりも、イエスさま。怒ってないですか!?
二の句を継ぎます。「新しい布と古い服への継ぎ」ユダヤの中での信仰を語っておられるのでしょうか?
イエスさまの信仰は、新しい神さまからの約束。(新しいと言っても、古くに預言されていますが)
この新しい布。丈夫で有ります。古い布に負担を与えるくらいの強さがあります。しかし、どちらの布も、織られた方は、同じ。良い物として新しい布を与えて下さったのに、古い布は、抵抗し、破れに至る。共に、服としての役割を受ける事は、出来なかったのでしょうか?仲たがいすれば、破れに至るのです。
新しい葡萄酒は、まだまだ、発酵する力をもっています。見えていない力を持っています。
だから、それを、受け入れる袋も。イスラエルも、新しく、生まれ変わらなければならないのです。
主の十字架の御業が、それを現すのです。
「古いものの方が良い」(39節)けれども、今朝も、新しい恵みが、私たちの目の前に置かれている。
私たちの前に備えられているのです。