マタイによる福音書 6章5~8節
高松教会 村上有子
クリスチャンでなくても「…お祈りしています。」このフレーズを聞くことが多くなったと思います。だれに祈っていいのか分からなくても、切に願い、切に念じる思いからでしょうか。相手を思う気持ちを表現することの大切さを教えられると同時に、「誰にむかって、祈っているのだろうか?と疑問を抱いてしまった自分がいます。私たちは、「天の父なる神様」に祈ります。
聖書の神様を信じていながら、その神様に向かってではなく、人に向かって、自分を誇るために祈っていた者たちに対して「偽善者」とイエス様は呼んでいます。そう呼ばれていた者たちは、律法の先生たち、パリサイ派のユダヤ人たち、祭司、祭司長であったことをここで記しています。その偽善者たちのように祈ることがないようにと、祈りを教えている場面です。
誰に向かってか?「隠れたところにおられる神」に。何を?「心に隠していること」も含めて、何でも祈っていいのです。隠れていること、隠していること、全てのことを知っておられる方の前で、優等生を演じても意味がないのです。神様は、こうも言われています。
【Ⅰコリント4章5節】主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。イエス様を信じてからも悪い事をしてしまう自分がいます。隠しておきたいことばかりですが、神様は、私たちがこの世の誘惑や腐敗と闘って、陰で主のためにしたこと、していることをも、もちろん見ておられるのです。「おほめにあずかる」賞賛が与えられることが、書かれているのです。嬉しい事です。主は、インマヌエルの主です。一時も目を話さずに、ともにいてくださるのです。感謝