高松教会 村上貴志 ヤコブの手紙 5章 1~6節
世の中には、「持つ者」と「持たない者」の二者が存在すると言われています。 その通りで有ります。 人間は、一人ひとりが異なる姿を持つだけで無く、能力・賜物・努力していく力・継続していく力・忍耐していく力・戦う物理的心理的な力・受け入れる力・孤独に耐える力・人に取り入る力・運を切り開く力、etc. それ故に、「持つ者」と「持たざる者」に、分かれてくるのです。
では、手に沢山残れば、「幸せ?」でしょうか?
「そりゃ、あれば、幸せだ」かもしれません。でも、その「幸せ」どこから来たものなのでしょう?誰が与えて下さったものなのでしょうか?自分の才覚?
いえ、努力を継続する力やその運も、あなたを知るお方が、与えておられるのです。それを、驕り高ぶる人がいる。なぜ、平等ではないのでしょう?
「いえ、平等ですよ!!」神さまの思いからすると、平等なのです。「持つ者と持たざる者がいても?」 神さまの御計画の中では、平等なのです。
必要に応じて与えて下さる・託して下さる。
出エジプトの時のマナのように。 一人に一日分。たくさん集めても、次の日には、残す事が出来なかった。(富は、朽ち果てた?金銀は錆びる?) しかし、安息日の前の日には、二日分集めても良かった。
神さまは、それぞれの状況に合せて、個別の人・家族・もっと大きな集団を、充分に、見つめ尽くされて・考えになられて、異なる量であっても、まことに必要としている物を、与えられているのです。
【マタイ25章】 「タラントン」のたとえでは、最後の一人、何もしない人物にも、与えておられる。
神の民で有るならば、全ての人に生きる力が与えられているのです。神さまの思いからすると、「全員に満額。必要に応じて」なのです。多ければ、朽ちる前に分け与えれば、良いのです。