使徒言行録 4章23-31節
高松教会 村上貴志
神さまに従い、イエスさまに従い、救いの御業を知った人たちは、「見たことや聞いたことを話さないではいられない」思いに満たされました。
自分にも起こったこの大きな喜びを、福音を、話さずには、おられなかったのです。
これらの喜びは、聞いた周りの人たちに伝わりました。
しかし、「それを、良し」と、思わない人たちは、「話さないように」と、命じました。
彼らの思う事、彼らの思い描く世界とは、異なっていたからです。
思い通りにならない事に対して、異を唱えたのです。
世に留まりたいと。
「救いが来ますように」預言書の「メシアによる希望」を喜ぼうとする民衆とは異なって。
神の御国への反対運動が起こったのです。
反キリストが現れたのです。騒ぎ立つのです。
しかし、この騒ぎが、人の怒りが、神さまの御計画の完成に加えられるのです。
「キリストを十字架に付ける」
神さまに従う者にとって、御旨であったとしても、できない事です。
ですが、全ての人の救いには、必要な事であったのです。
あらゆる人の罪。神さまから離れた姿を明らかにするためには、離れた人たちの力を用いるしかなかったのです。
恵みとは、「限られたもので、力で奪い取るもの」ではありません。
「全ての人に、弱い人にも、小さい人にも、等しく」なのです。
地上での恵みは、限定的で限りがあるかもしれません。
しかし、神さまの元からの恵みと祝福は、限り無く永遠であります。
世の人は、知らない。神さまを見ていない人は、この福音を知らない。
信じる事ができないのです。
救い主の御業があらわされ完成され、
そして、悔い改めの祈りが、イエスさまの御業によって神さまと繋がれ、
そこにしかない、「キリストと共に」という決心をもったならば、
今まで理解する事が出来なかった事が、理解できるようになるのです。