使徒言行録 4章32節-5章11節
高松教会 村上貴志
主イエスを信じる故に、ユダヤ教地域共同体からの追放。
生活基盤の喪失にも繋がりました。
故に、信じる人たちは、一つ所、教会に集まって共同の生活を送る事となりました。
信仰の中で・祈りの中で一致した兄弟姉妹たちは、全てを共有して、役割を分担して生活をしました。
一人一人に与えて下さった賜物を尊重し、共同生活を送ったのです。
その事によって、自分には欠けている賜物・他者の事を良く理解する事が出来たのです。
一層互いに愛し合う・尊重し合う祈りの生活を構築する歩みの信仰生活は、力強い証しとなりました。
この生き様が、周りに大きな影響を与えたのです。
そこには、貧しい人や困る人は、おりませんでした。賜物と持ち物を集め、必要に応じて用いたのです。
しかし、全ての人が、そうできたわけでは有りませんでした。
誘惑を受けた人もいたのです。彼らは、全てを献げる事を、惜しいと思いました。
サタンの思いに満たされた夫婦の思いに、聖霊の思いに満たされたペトロが気づきました。
「どうして?」
「思うままに、行うべきことだ」と。
ルカ18章の「金持ちの議員」の話。「すべて売り払い」です。
惜しかったのでしょうか?
「皆と同じにしないといけない」と思っていたのでしょうか?
どこかに、誘惑の試練が有りました。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ 18:25)
全て神さまからいただきながらも、豊かすぎると、妨げとしてしまう。
でも、その後のルカ19章でザアカイは、「財産の 半分を」と語ります。
主は、「喜ばれ」良しとされました。
異なる姿でも良いのです。
【一コリント12章◆一つの体、多くの部分】参照
異なる賜物。異なる思い。異なる祈り。異なる業。
全てが主に繋がっているのならば、思いどおりにも、できるのです。