ヘブライ人への手紙 9章1~13節
高松教会 村上貴志
こどものさんびかに「どんなにさびしい時でも、どんなに悲しい時にも、イエスさまが一番。イエスさまが一番。…。」という歌があります。
信仰者にとっては、イエスさまが一番です。
古い祭儀では、牛の頭に手を置いて、「私の罪が、この犠牲の献げ物に移りますように。私の背いた思い・邪な思い、全てがこの牛を通して取り去られますように」と、願うのです。
日々、行われる悔い改め。熱心なように思えます。
しかし、それだけ、神さまから離れていたと言う事です。
律法に従いきる事の出来ない者は、地上の祭儀でも、変わることはなかったのです。
どうして変わることが出来なかったのでしょうか?
それは、古い契約・礼拝が、人の姿・現状に合わせられた、肉の清めの規定に過ぎなかったからです。
それは、真の思い・心を清める。
私たちの本当の心に響く、「心が痛んで、傷んで,…。もう、以前のような神さまから離れるということは、止めよう。」という、思いに繋がらなかったからです。
動物に罪を委ねる祭儀。繰り返される悔い改めに、どれほどの重みが有るのでしょう。
毎日願い。毎日離れる。神さまは、喜ばれなかったのだと思います。
なんとかして愛する民を、御手の内に留め続けたいと思って下さったのだと思います。
新しい祭儀は、民が、御手の内に留まるために、…。
民の心に書きつけるために。
私の大好きな一番であるお方が。私の罪を担って、十字架に架かって下さったのです。
私の事を一番大切に思って下さっている、私の事を一番愛して下さっている、イエスさまが、私のために贖いの献げものとなって下さったのです。
そしてそれは、たった一度の御業で永遠に与えられる。
それを知る時、私の心は変わるのです。
「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血ある」これこそが、新しい契約なのです。