ヨハネの手紙Ⅰ 3章11~24節
高松教会 村上貴志
「愛を知る。互いに愛し合う」ヨハネ教会の信徒たちに、「今更」何を伝えようとしているのでしょうか?教会に集う人は、「初めから知っているのです。自分たちが、神さま愛を受けている事」を。主が、値の無い自分をも、愛して下さった事に気付いたならば、出来ないことでは、無いからです。
そのような状況を、創世記4章の「カインとアベル」の兄弟の姿を通して、解き明かそうとします。
カインは、土を耕す者。真面目に一生懸命に作物を育てます。それを神さまに献げようと励みます。
弟のアベルは、羊を飼う者。放牧は、家畜たちが勝手に草を食べ、子どもを増やしました。彼は、その中から、肥えた初子を見つけて、献げました。
献げられた収穫物。丁寧に収穫された兄の物ではなく、適当に見えた弟アベルの物を、神さまは選ばれました。どうして、努力して一生懸命だ兄カインが、報われなかったのでしょうか?手紙には、「兄は悪い者に属している。弟は、正しい行い」と、記されています。一生懸命、働いた兄が悪く、調子よく立ち回った弟が、正しい。どうして、そんな判断が下されるのでしょうか?理解しづらいです。
しかし、ここでは、人の働き「一生懸命や熱心」ではなく、「神さまに委ねる」と言う事を、教えているのです。「祈って、受け入れて、歩む事」が、信仰者としての相応しい姿だと教えるのです。比べる事。そこには、キリストの贖いによる、永遠の命は、留まっていないのです。「留まる」信じる人は、最初に、イエス・キリストの愛を受け取っています。神さまから離れると言う私の弱さを、イエス・キリストの十字架の命と取り替えていただいているのです。それは、一過性の喜び・完成では無く、共に・留まる毎に、喜びは増し加えられるのです。私たちは、互いに愛する事によって、神の愛の深さを知るのです。