ヨハネによる福音書 18章1~27節
高松教会 村上貴志
3月1日(水)より受難週(レント)に入りました。
この期間、私たちは、自らを省み、悔い改めの思いを抱きます。
それは、「昨日、このような事をしてしまった」というような事だけでは無く、これまでの自分の歩み思い出し、「主と共に歩みを進めていたのか?
それとも、贖われたにも関わらず罪の誘惑に晒されていたのか?引かれたのか?踏みとどまったのか?」
それを、省みるのであります。
「悔い改める事」この聖書の箇所には、「人の罪の姿・神さまを見つめず神さまから離れた姿」が、これでもかと言うほど記されております。
「イエスを裏切ろうとしたユダ」厭うべき姿のユダとは、実は、私たちの姿です。
彼が、ここで、人の心の中にある「罪の姿」を、明らかにしたのです。
主と共にありながら、時に、「イエスさま少し目をつぶっていて下さい」。
心の中心にあるイエスさまとの交わりを遮断する思いを浮かび上がらせるのです。
ユダは、官憲(世の力)を引き連れてやって来ます。
しかし、それは、(後ろには、天の軍勢が控えておられる)イエスさまの前では、無力で有ります。
にもかかわらず、イエスさまは、父なる神さまの御計画に従う御意志を持たれているので、従順で有りました。
イエスさまは、その使命のために身を御委ねになる事は、厭いませんでした。
ですが、弟子たちが巻き込まれる事は、望まれなかったのです。
この業は、弟子たちを含めた神さまの造られた民の為だからです。
私たちは、「だれを捜しているのでしょう?私を救ってくださる方を捜しています」
「わたしである。」このフレーズは、神さまが自らを現された言葉と同じであります。
この言葉を持って、イエスさまは、返事をして下さるのです。
そして、その呼びかけ・祈りに対して、赦しと慰めと平安を与えて下さるのです。