ヨハネによる福音書 7章10~24節
高松教会 村上貴志
今日の聖書の箇所で、イエスさまは、二つの姿を示されます。それは、「世を二つに分ける。選び出す。」という御自身の使命を現されているのです。
一つの姿は、イエスさまの姿でした。
イエスさまは、「定められた安息日の決まりを破ってでも、神さまの民が必要とする恵みと祝福を与えられたということ。
神さまは、いつも、どのような時にも、共にいてくださる」という事を示されました。
それに対して、もう一つの姿。祭司や律法学者たち。
「仕事をしてはならない安息日では有るが、神さまからの祝福と恵みの約束を明らかにするために、割礼の業を施していた。
仕事ではあるが、モーセの律法に由来する出来事だから。」と理由を付けて、その業を行っていた。
礼拝するための備えと言いたかったのかも知れません。
祭司や律法学者たちは、律法にこだわっていながら「自らの立場が、栄光が、失われる」という恐れから、「イエスを殺してやろう」と、十戒の大切な約束に反する思いを持っていたのです。
神さまと共にある姿とは、どちらなのでしょう。
全てを御存知である神さまは、人に栄光を帰するための見える割礼ではなく、神さまの御心を行う、心の中の割礼を求めておられるのです。
「自分を立てるために、他者を裁くうわべだけの裁き」では無く、「神さまの栄光のみがこの地上に現されるように」と、「自らをも裁く、正しい裁き」を求めておられるのです。
「神さまの日に。神さまの前で」どちらの働きが、正しかったのでしょうか?レントカレンダーの今日の聖書日課。マタイによる福音書16:13~28
「私たちにまことを現して下さるのは、天の父よりの導きなのです。」そして、イエスさまが、ペトロに教えられたことを覚えて、主の道を進みたいと思うのです。