ヨハネ書 11章45~57節
高松教会 村上貴志
ユダヤ古代誌を執筆したヨセフスは、大祭司について、「神さまのための仕事」と、解説しています。
時の大祭司は、カイヤファ。
彼は、18章以降に記されている「主を十字架につける」という事を行った、中心的な人物です。
ピラトと共に後代の人から良くない印象を持たれている人物の一人です。
その事を、指し示すように、49節では、「その年の」と、伝えます。
「その」、…。「私たちの愛する主を、十字架につけた、ひどい年の、…。」と、記すのです。
虐げられた民主は、政治的な・軍事的なメシアを望んでいました。
きっかけが有れば、反乱が起こりうる状況でした。
そして、「ローマによる、都と神殿の破壊。自治が失われ奴隷の生活が待っている。」
そのような畏れに駆られて、カイヤファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」と、指導者たちに提言したのです。
国を守るために、自分たちの立場・権力を守るために、大切な一人を、切り捨てようとしたのです。
このような罪深い発言を、カイヤファの自己中心ともとれる思いを、神さまは、神の言葉・預言として用いられました。驚きであります。
「カイヤファが、大祭司であったので預言した。」
キリストを十字架につけた者の言葉を、私たちは、信用できません。
しかし、その様な人物の発言を「預言」として、神さまは用いられたのです。
御自身の言葉では無く、罪深い者の言葉を用いられました。どうしてでしょうか?
それは、その様な人たちのために、キリストが十字架に架かられたからです。
その人たちもが、「神さまとの祈りによる交わり」を回復できるように。
良き人たちだけのためでは無く、従う人たちだけのためでは無く、全ての人たちの思いを集めるために、主の十字架の業は、地上に現されたのです。