ヨハネによる福音書 11章28~44節
高松教会 村上貴志
イエスさまを憤らせるような思いを抱かせたユダヤ人たちがいました。
彼らは、マリアを慰めに行こうとしました。
良い行いに見えます。
ですが、この「慰める」という行為が、神さまの御意志に反するものであったのです!?
驚くべきことに!?
彼らは、マリアが、悲しみと嘆きの余り神さまを呪うような言葉を吐かないように。
悲しみを分かつことで、今以上強く思い詰めないように配慮したのです。
人の感情の抑えきれない部分を共に担い、神の共同体として仕えようと言う行動でした。
神に憐れまれた人ならば、誰もが取る行動でした。
しかし、結果としては、そうでは無かったのです。
マリアは、悲しむために・嘆くために行動したのではなく、イエスさまの元に、願いと祈りを捧げるために立ち上がったのです。
理解できないユダヤ人たちは、「願いと祈り」を中断させるような事を行ってしまったのです。
イエスさまは、彼らがその様な人たちであることを、ずっと前から御存知でした。
神さまの元におられる時から。いえ、その様な人たちのために、地上に遣わされたのです。
そして、神さまから離れた人たちが・マリアの祈りを中断させようとしてしまった者たちが、「共に神さまに祈る事が出来るように」と、地上で業を為されたのです。
イエスさまは、「出てきなさい」という言葉で、彼らにも・私たちにも、呼びかけられます。
イエスさまの言葉に変えられた人たちは、「どのような困難の中にあっても、願い・祈りは、聞き届けられ、つくり変えられた新しい栄光に満ちた世界が与えられる事を望み見る」のです。
そして、望むだけでは無く、現実を、「主よ、来てご覧ください」と、喜びと確信の思いで、イエスさまに報告することが出来るのです。