ルカによる福音書4章31-44節
高松教会 村上貴志
イエスさまの言葉に、人々は驚きました。語る言葉に権威が有ったからです。当時の律法学者たちは、「自分の語る事」を裏付けするために「過去の律法学者やラビたちの言葉・偉大と言われる人たちの言葉」を引用して強化して、正統性を主張したのです。「ラビ・アキバは、こう言った。私もそう思うし、その通りだ!」 権威とは、語る時に生まれるものでは無く、過去の栄光を語る事だったのです。
しかし、イエスさまの語られる言葉は、異なっていた。過去の考え方を参考にしているのでは無かった。当然であります。イエスさまは、神の御子としての言葉を語られているのであり、偉大な律法学者やラビたちが導かれた神さまの思いを直接語っておられたからです。
「神さまと御子は一体」でありますから、イエスさまの語られる言葉=神の言葉。その一つ一つの言葉に権威が有る事は、間違いありません。しかし、それを、時代が受け入れるのには、早すぎたのかも知れません。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(ルカ4:24)という思いが、「正しさ」を、阻害する原因となっていたのです。この時に、正しさを感じたのは、「悪霊」で有りました。悪霊も、神さまが創造された存在。「悪霊」の言葉を、敵対する者の言葉をも、用いられるとは。それが、全てのものをお造りになられた、神さまの権威なのです。
思わされることは、「私のちいさな思い」(凝り固まった・古い思いにこだわった「私の小さな思い」)を越える、大きな思いが、私の目の前には、実は、広げられている。
イエスさまは、「他の町にも」(43節)と、語られるが、私の今までとは異なる思い・「他の」思いに、神さまの権威ある言葉を、お伝えになっておられるのです。