ルカによる福音書 4章14-30節
高松教会 村上貴志
「霊の力に満ちて」そのようなイエスさまの存在を知り、人々は、神さまへの希望を募らせました。大きな夢と期待を、イエスさまを通して神さまに向けたのです。会堂で読まれたイザヤ書61章。イエスさまはこの御言葉を通して、「解放・主の恵みの年」を、人々に告げます。「民の苦しみは、神さまによって、解放される・成し遂げられる」しかし、BC57。ナザレでの叛乱。1万人もの民衆が、ローマ軍に殺されました。支配も重税も、変わっていない解放への虚ろな夢を待ち続けます。しかし、実現されない。
待ち続ける虚無感に苛まれている。虚しさは、大きな恨みへと繋がる。「主の恵み」は、「解放」だけでなく「主の裁きも伴うのでは?」との期待。
ボタンの掛け違い。イエスさまは、イスラエル・ユダヤを越えた「神の国の確立」と、「全ての民の罪の赦しと救いの御業」を、語られる。ナザレの人たちは、「自分たちだけの恵みと、夢を期待する」
大きすぎた期待。叶えられるとは、語られない状況。
人々の不満は、爆発するのです。「神の御子であるならば、その力を持って、ユダヤの民の願いを、聞き届けるべきだ!」ですが、それは、本当に神さまの御旨なのでしょうか?【ルカ9:54】のような裁きを求めるのか? 【ルカ6:27-29】神さまの平和を求めるのか? サタンに誘惑された直後のイエスさまは、教えられる。「主を試すではなく、主は、信じるもの」
ユダヤの民だから、救われるのではない。むしろ、
求める異邦人に恵みが与えられている。
確信を突かれた人々の思いは、二つだけであります。 ①悔い改めて立ち返るのか? ②ねじくれて恨みに思うのか?
神さまの御旨を信じる人たちへの幸いが語られたと同時に、自分勝手な虚しい夢は、虚しく叶わない事を、伝えているように思えます。