高松教会 村上貴志 コロサイの信徒への手紙 1章9~23節村
終戦の日・神の平和を覚えます。世界中に平安がありますよう願います。
パウロは、「神さまへの執り成しの祈り」を、捧げます。異邦人世界。ギリシャ哲学やローマの文明。 それで、あなたがたは平安なのだろうか?不安だらけであろう。
いや、そうでは無い。私、パウロが、まことの平安を教えてあげよう。パウロは、祈り・教えるのです。それは、ヨハネによる福音書14~16章で、何度も繰り返しイエスさまが、語られた事。「わたしの名によって何かを父に願うならば、…。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」【ヨハネ16:23-24】
しかし、この事は、知恵では無い。最新の知識でも理解できない。「まことの神さまから、“離れた”という罪は、拭う事が出来ない。取り返しがつかない。」人が、神さまから離れてしまったのだから。
「しかし!再び」イエスさまの十字架の贖い・大いなる恵みによって、神さまに繋がれたのです。
知恵や努力では無い。「神さまが愛して下さった」
この事実は、自分の相応しさを考えるとおかしなことかもしれません。受け取る事は、出来ない。
そこで、パウロは、語るのです。「理屈では無い。神の愛だ」そのために、「あなたがたが見えない神の姿で、全ての始まりから神さまと共に居られ、全ての創造と維持。神さまとの間を執り成して下さっているお方がおられた事」を、教えようと言うのです。
これらの事を、理解できるか? いえ、理解は、出来ない。感謝しかないのであります。理解できない事を、知る力をも、神さまから与えられている。
この聖霊の働き、導きによって、教会は、回心・洗礼を境として、主の十字架・和解の御業に与り、周りに福音を宣べ伝えて行くのです。