高松教会 村上有子
マタイによる福音書5:1~12
聖書を開いたことのない人でも、一度は聞いたことがある、そのような聖句がたくさん含まれている「山上の説教」。それゆえに、いろんな形で解釈され、聖句が独り歩きしてしまいやすい箇所でもあります。5章から7章が「山上の説教」「山上の垂訓」と呼ばれているイエス様の教えです。今日は、この説教の細部に入る前に、この説教の「全体像」「イエス様の意図」を考えていきたいと思うのです。
英国の有名な説教者であるロイド・ジョーンズが、山上の説教は、「倫理」「道徳」「一種の新しい律法」ではない。「神がお定めになったクリスチャンの生き方」「神が意図しているクリスチャンのなるべき姿の実例」である。と語っています。実際には、近くにいた弟子たち、周りにいた群衆が聞いていたのですが、イエス様はこの説教をすべてのクリスチャンに向けて語っているのです。私はずっとこの山上の説教と向き合わないでいました。「無理です。私には難し過ぎる教えです。」とこの箇所を軽視して、サラリと読み過ごしていました。しかし、私は間違っていました。ここで教えていること、特に「幸福の教え」は、私たちの生まれつきの性質、傾向とは全く関係ないのです。一つ一つの幸福の教えにおける性質は、私たちには全くなく、徹頭徹尾、聖霊の御働き、神様の御恵みによって作り出される性質なのです。ゆえに、クリスチャン(イエス様を信じ、神様のものとなり、御霊を宿す者)に命じられているのです。自分の力や神様以外の何かでこの教えを遂行しようとしても、ただ自分の無力さを浮き彫りにするだけです。逆に目をそらしてしまう。以前の私がそうだったわけです。しかし、イエス様は、十字架にかかり、復活されました。それは、私が「神様の願っている姿」に変えられるように、神様の側から、その道を用意してくださった、ということです。何と幸いなことでしょう!ただ主にゆだね、頂いている聖霊の御働きと御支配の中で、「山上の説教」の教えを生きていくことを可能にしてくださるのです。感謝します!