高松教会 村上 貴志
ヤコブの手紙 3章13~18節
人の姿を炙り出す「裁き」について先週お話をいたしました。罰が与えられるのではなく、真実の姿がさらけ出される事。「神さまの前におらせていただいている」と、思っている自分に、本当の姿が知らされる事。「お前は、神さまから離れている」という事が、明らかにされる事。正しく生きてきたつもりなのに。律法にも掟も、人並みに守ってきたはずなのに。精一杯やってきたのに「それで、相応しくないなんて。もう無理です。これ以上は、有りません。 それでだめと言われるのならば、いっそ、火あぶりや石打の刑の方が、マシかもしれません。そうして下さい。」律法と掟に縛られた生活。周りの目を気にする生活。「みんなが、そこそこの生活」は、「みんなが、ちゃんと、神さまから離れている生活」なのであります。
「それで良い」同じだから。悔い改める必要無し。
でも、神さまは、「良しとは、してくれない」と思います。だって、神さまは、「その他大勢」を、お造りになられたのではなく、「あなた・わたし」を、一人ずつ丁寧に、造られたのですから。個性がある。異なる賜物・量も違う。それに見合う、試練も困難もある。もちろん、喜びもある。
マタイ25章19節以下「タラントンのたとえ」
世の中は、同じ事を望みます。変わった事を許しません。一人だけが評価を上げる事をも好みませんので、賜物を埋めてしまうのでしょうか。
善い・貴い行いを、神さまは、見ておられる。
人の評判を恐れて、みんなと同じように、神さまから離れ続け、他者を見続ける私を、神さまは知っておられる。その様な者に、見させてくださる。
「主の十字架の御業を」罪の縄目から解かれる。
私たちは、新しく作り変えられ、良き実を結び、平和を実現していく事が出来るようになるのです。