高松教会 村上貴志
ヤコブの手紙3章1~12節
「舌を制御する」とても難しい事です。人の前で。 そして、神さまの前でも。
人に対しては、様々な感情を持っている私たちは、結構、酷い事を言ってしまう。自分を保つために。
致し方ない事なのかもしれませんが、相手は、大変。この世の罪が、産みだされてしまうのです。
では、「神さまの前」では? 何でも・心の中の全てを御存知である神さまを、前にして、…。人は、嘘をつく。今日の、夕礼拝。創世記4章。カインとアベルのお話ですが、カインは、神さまの前で「激しく怒って、顔を伏せた。」そして、弟を殺した後、神さまに「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と聞かれた時、カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」そう答えた。
そのような神さまから離れた罪人のために救いの御業がなされた時代の私たちは、どうでしょうか?
火のように・激しい舌を持つ私は、どうしたら良いのでしょうか?しかし、その同じ舌が、「呪い」だけではなく、「讃美」をも、発しているのです。
その舌を治める・収める・納める・修める事は、出来ないのでしょうか? 主の十字架の救いに与り、罪赦された私が。カインのように目を伏せる?「私のために十字架に付かれたお方」を見るのか?
「讃美と呪いの声」を同じ口から発し、甘い水と苦い水を同時に湧き上がらせる舌(心の出口)を持つ者に「どうしろと?」
「讃美と呪い」同時に。同じ口から。
それを知らされることが、「厳しい裁き」であります。考えよと言われたら、…。考える間もなく、…。答えは、一つであります。
「悔い改める事」この舌を、讃美に用いるために。その根っこに繋がる私たちの思い・心に、イエスさまが教えて下さった「愛と寛容」を中心を置いて。