高松教会 村上有子 マタイによる福音書4章1~11節 受験生の方々が苦境の中、試験を受けていることを覚えて、祈ります。受験生だけでなく、全ての人が何かしらの試みを受けていると思います。しかし、私は越えられない試みはないと信じています(Ⅰコリント10:13)。必要のない試みはない…と思いますが、試練は辛いもの。無ければない方が良いとも思います。 イエスさまは今日の箇所で誘惑を受けたと記されていますが、不思議な文章です。「霊に導かれて…」ということは、神さまからの誘惑ということでしょうか?「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)」が用いられて、神がこのように導いたことのようです。決して人を誘惑しない神さまですから「試み」という表現の方が私にはしっくりきます。しかし、なぜ、イエスさまは神さまから試みを受けなければならないかったのでしょうか?イエスさまの行動の根底にあるのは常に「私たちのため」「神の栄光のため」です。私たちのために弱い肉体を帯びて、私たちの所に来てくださったイエスさまは、私たちがどのように「この世の支配者」である悪魔の誘惑に打ち勝っていくことが出来るのか、示してくださったのです。この悪魔の誘惑は明らかに「神」に対するものです。私たちには誘惑になりません。しかし、神でありながら人となられたイエスさまには、試みです。「奇跡を起こす力を持つお方」「権威者の中の権威者」「世界の創造主」であられる方ですから、悪魔の言う通りにできるのです。しかし、その力を使わせることに悪魔の誘惑があるのです。「お前は神だからできるだろ。」人と同じ弱さを帯びつつも神である方にできないことはありません。しかし、これらに応えることは、十字架に向かわせないこと、人を本当の意味で救うことが出来なくなるという事です。イエス様の取られた方法は、2つ。「祈り」と「みことば」でした。 多くの先達たちが断食して祈りました。聖書に「断食」の定義はありませんが、聖書辞典によると「断食はそれに伴う肉体的苦痛を通して深い罪の自覚と恐れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現している(ヨエル1:14)。」ですから、イエス様は、この試みのため深い切なる熱心な祈りをささげていたのでしょう。それでこそ、この試練に向き合うことが出来たのではないでしょうか。そして、空腹を覚えることは当たり前です。ここは、悪魔が大いに漬け込む隙とも言えます。パンが欲しい者に「パンを食べなよ」と語るのです。しかし、イエスさまは、全ての悪魔の試みに「みことば」で応えられました。悪魔は「みことば」を使って人を試みる者でもあります。そこにも、イエスさまは、「みことば」で勝ち向かいました。全て申命記からの引用です。イスラエルの民が神に何度も背を向けても許し続けた神さまの憐れみの戒めが記されている箇所でもあるのです。私たちにも「祈り」と「みことば」が与えられています。この世の誘惑に打ち勝つ方法を、イエスさまは私たちに示してくださったのです。蓄えましょう。聖書から私たちに語られている御声を。世の大きな声に惑わされないように。
2021
14Feb