高松教会 村上貴志 テトスへの手紙 3章8~11節 「教会」とは、どんな場所なのでしょう?思いは異なる事でしょうが「今、教会に集う人にとって。どのような場所」なのでしょう? 考えていくと、全く逆の答えが出てきます。 例えば、熱心に願い求める人たちにとって、…。(ユダヤの人たちがそうでありました)神さまの前に相応しく。(彼らは、神さまの前に、今、立っているのです)神さまは、全知全能で、全ての事を理解なされている。自分の現在の姿も。過去の悔い改めを求めた姿も。そこに立つ時。「正しい姿である事」これは、自然な事であります。神さまに対する 畏れと敬意の現れだからです。掟を守り、言い伝えに従い、道を外れたくはないと思うのです。相応しい姿で歩みたいと誰しもが願うのです。それを求めて、掟や系図(先の選び)に頼るなら、新たに神さまから、離れてしまう。罪の穴に陥ってしまう。 しかし、今の私たちには、イエス・キリストの御業が。十字架の御業が有る。「人は、執り成され、神さまと繋がれた」神の御子・神の独り子の貴い命によって。その命が、私のために、献げられた。いえ、「全ての人」のために、十字架の御業が現された。 これなのです。 パウロが、強く主張した事は。 一人の人が救われた。それは、一人の人への救いであるが、その人、一人だけが救われたのではない。 その人を通して、周りの人への救いが広がるためなのです。神さまと再び繋がれた事。神さまと共に居る事が赦された事。この良い知らせが、世界の果てまで、告げ知らされるために、「(相応しくないままの)あなたが、救いの御業に入れられ、そして、用いられた事」救われただけでなく、用いられる事をも、パウロは、伝えたかったのです。 「あなたの為に、主が十字架に架かられた。そして、全ての人の為に」これが、真実であります。
2021
07Feb