高松教会 村上貴志 テトスへの手紙 3章1~7節 「洗礼によって・洗礼を受ける」とは、どのような事を指すのでしょう。新約聖書には、二つの洗礼が記されております。一つは、ヨハネによる「水の洗礼」今までの歩みを悔い改めて、神さまに目を向ける事です。洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と呼びかけました。神の国の到来。神さまと共に歩む時が近づいているので、『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』(3:3)相応しい歩みを送るよう勧めたのです。 それでは、相応しい歩みとは、どのようなものでしょう。いえ、相応しくない歩みを先に考える必要が有ります。それは、「正しく生きる事です」とても不思議な答えです。ガラテヤ書5章には、「肉の欲望を律する事」【19-21】「神さまと共にいる事を忘れる事」が、記されているのです。「正しく神さまに用いられている。それに相応しい生活を送っている」という驕りを、治めるよう指摘されたのです。 洗礼者ヨハネの悔い改めを求める叫びの後半には、こうあります。【マタイ3:9】「肉の欲望を自制して、神さまに従っている」と驕る者の行く末は、「選ばれている」という肉の欲望です。争い・そしりを、正義のために好む者となるのです。 イエスさまは、従う事を教えられました。【マタイ5章39~41】争わない事・与える事。自覚的ではなく、他覚的に。「変えられた・選ばれた者」とされたことを、覚えるのです。相応しくないままで。 キリストが、「新しく造りかえて下さる・生まれさせてくださる(5節)」私が変わったのではなく、キリストが変えて下さった。「キリストが、十字架につかれ死にて甦られた」事によって。【ガラテヤ5章・コロサイ2章】悔い改める事によって無力さを知る。 それが、キリストによる洗礼の恵みに与った者・変えられた者の、歩む道なのです。
2021
31Jan