高松教会 村上貴志 イザヤ書 53章1~12節 今日、一本目の蝋燭が、点灯されました。一本目の蝋燭は、「預言・希望」です。神さまからの「預言」(約束)を信じ続けて、救いを待ち望むしるしです。この灯を、周りの方々に、「キリストは、世の光・灯です」と伝える事。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)に記されている喜びを伝える事によって、神さまの愛の業・救いの御業に参与するのです。 この大きな出来事。神さまは、救い主がお生まれになる540年も前にイザヤという預言者を通して、その喜びを、信仰の民に伝えました。イスラエルは、「バビロン捕囚期後半からエルサレム帰還の時代」 「囚われの身の苦しみとそこからの解放」神さまの大きな愛が、再びイスラエルに与えられた時期です。 その様な神の御業に与りながらも、「前代未聞の出来事だ」(53章の冒頭)と、語るのです。 そこには、「苦難の僕」という姿の救い主が記されております。その方によって、人々は、救われる。 そのお方は、栄光ある形でお生まれになるのではなく、人が見向きもしない・目立たない家族の一人としてお生まれになる。人々と同じ日常生活・信仰生活を送られた後に、役割を果たされるのです。 「人の病」を担われます。「病」それは、身体の変調や傷みだけで無く、神さまから離れたという「罪」故の、祝福の喪失を含みます。苦しむ故の、暴虐。 この「怒りや暴虐」に対して、そのお方は、「従順」という姿勢で仕えられるのです。神さまから離れた故に祝福を失った人の怒りを受け止め、その人たちを慰めるため・癒すために、「僕」は、その苦しみを受けてくださると言うのです。本当ならば、それぞれの背きの罪の報いは、離れた人が受けるべきもの。 私の罪を代わって受けてくださるなど、信じられない? その方が、お生まれになったのです。
2020
29Nov