高松教会 村上有子 マタイによる福音書1章18~25節 今日の箇所は、救い主に名が与えられる場面。その子の名は、私たち人間のために、神のご計画を示すために、神によって長い年月をかけて用意された名前です。その子が、私たちの所に来られた目的が名前になっているのです。マリアは処女のまま、聖霊によって身ごもります。婚約期間中といえども、夫と妻ですから、彼女は姦淫の罪を犯したことになり、死刑です。マリアを愛するヨセフは、密かに彼女と離縁しようとします。その時、天の使いが夢を通してヨセフに語ります。マリアの妊娠の経緯、彼女を迎え入れること、そして生まれてくる子に「イエス」と名づけることを。「イエス」という名前は、「主(ヤハウェ)は救い」という意味の言葉をギリシャ語風に読まれた名前。一般的な名前でありましたが、この名前には説明が加えられています。「その子をイエスと名付けなさい。」(「なぜなら」という接続詞が原文には入っています。)その子は自分の民を罪から救うからである。」イザヤ書の預言も告げられます。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)」イエス様は、インマヌエルと呼ばれる地上の生涯を成就する、とイザヤは予言したのです。罪からの救いによって私たちは神との断絶から回復し、神様の元に帰ることができる、すなわち、神とともにいられるのです。ですから、イエス(神は救い)は、インマヌエル(神は我々とともにいる)という素晴らしい救いをもたらすのです。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ最後の節28:20)イエス様は、どのような状況にあろうとも、ともにいてくださいます。イエス様が共におられる、これ以上の喜び、平安はありません。イエス様はインマヌエル。
2020
20Sep