使徒言行録 10章34-43節
高松教会 村上貴志
「入信する」とは、どのような事なのでしょう。
この箇所では、コルネリウスの入信について記されております。
入るという事は、既に、ある団体が存在するという事です。
ペトロが所属していたのは、エルサレム教会でした。
では、「教会」ってどのような意味なのでしょう?
教会とは、「神の民として召しだされ、その恵みに与り、契約の民として建てられた信仰の民イスラエル」を意味していました。
精進する場所や教えるための場所では無いのです。
その集いに参加するために、何が必要でしょう?
求められるのでしょう?
イメージからすると、「清く・正しく・美しく」で、あります。
でも、そのような事をイメージが定着すると、誤解が生じます。
「クリスチャンは、…だ。」決めつけられるのです。
すると、資格の問題が発生します。
相応しいのかどうか?
そして、頑張れば頑張る程、他者に対する目も厳しくなります。「同じように」
相応しい人を求めるのです。
その様になると、世の罪人を受け入れる事は、難しい事となります。
また、受け入れてもらう側も、敷居は、高く感じられます。
神さまは、どう思われているのでしょうか?
「選ばれた人・相応しい人」を求められているのでしょうか?
ペトロは、神さまの思いを取り次ぎます。
「分け隔てなさらない・どんな国の人でも」ユダヤ人か異邦人か。義人か罪人か。関係ないのです。
「神さまを畏れて」神さまの前で、祈る人を求めておられるのです。
なぜなら、「神からの導き、聖霊の導きによらないと、誰も、主であるお方を告白する事は叶わないからです。」
導きに従って、祈る時、キリストの十字架の贖いを知る事ができるのです。
贖いとは、交換するという事。
私の滅ぶべき命とキリストの命を、神さまは、取りかえられたのです。
知る者は、後から来る者を導き受け入れるのです。