ルカによる福音書 10章38~42節
福田哲牧師(屋島教会代務・分区講壇交換)
ここは、静かに心潜めて聴くマリアはすばらしく、忙しく動き回るマルタは避けられるべきものだ、と片付けられやすい箇所です。しかし主は、マリヤとマルタの優劣を問題にしたのではありませんでした。 マルタは、マリアが聞くという、主が一番喜ばれる仕方で主を接待しているということがわからなかったのでしょう。わたしにだけにもてなしをさせて、という言葉がそのことを示しています。忙しくて心を取り乱す。一生懸命やっているのに、余裕を失い、心を失い、自分を失い、そして他者までをも失いかねない。マルタは、多くのことに心を奪われていました。しかし、多くのことをしていたことが悪いのではありません。問題はなくてはならぬ一つのことで多くのことをするかどうかだということです。ただ一つの必要なこと。つまり、主の足元において、御言葉を聞き、そしてそこから多くのことをなくしていく力を得るということです。 動かず動く。動かない軸によって支えられてこそ、車輪はフル回転するのです。激しく動く時代ゆえに、不動の御言葉の確かさにあって、大胆に行動していこうではありませんか。 心静かに聞くものは、その聞いた言葉の元に動いていくことに傾いていきます。行動していこう。そういう方向へと向かわされます。また、真に行動するものは、今一度静かに聴かなければダメだ。という方向へと立ち戻らされるでしょう。信仰か行いかではありません。聞くことか行うことかでもありません。御言葉か行動かではありません。主にあって聞き、主にあって行う。 主イエスにあって聞き、主イエスにあって行う。マリアを通ってマルタへ。マルタを通ってマリアへと立ち返る。そのことが大切な事なのだ、改めて受け止め直し、実践的な歩みを展開していきましょう。