ヘブライ人への手紙 10章1~18節
高松教会 村上貴志
「犠牲の献げ物」を、したことがありますか?それは、神さまから離れてしまった罪に対して、悔い改めの思いをもって、赦しを願う事であります。 献げられる贖罪の献げ物・和解の献げもの、これらの焼け尽くす献げ物は、毎年、献げ続けられました。 この儀式によっては、誰も神さまの前で相応しい者とはなれなかったのです。雄牛と雄やぎの血は、罪を取り除く事は、出来ないのです。ただ、この儀式を迎える時、自らの心と信仰を思い出し、自らの心と信仰を思い出し、自らの弱さ、罪の記憶を思い出すのであります。ヨブ記に出て来るようなサタンが巡回してきて、試みるのです。それが、弱い自分への誘惑が断ち切られる事を切に願い求める事へと繋がるのです。しかし、無力な者は、「退け、サタン。(マタイ4:10)罪の誘惑よ。」と、誰かがその力を現して下さる事を待つだけです。神さまは、この願いに応えて下さり、アダムの時よりの古い罪ある人を贖って下さり、神さまとの交わりに加えて下さるお方を送って下さいました。 「イエスさまは、御自身のお体を十字架に捧げられるために、備えられた」(詩編40)と神さまに感謝をささげます。これこそが、神さまの望まれた事。「献げる」事は、「悔い改める事」であり良い事であります。しかし、神さまは、良い事のために繰り返される離反する罪は望まれない。神さまは、「一度だけの、完全な御業」を、私たちに現して下さったのです。民は、再び神さまから離そうとする試みと誘惑から断ち切られたのです。証ししているのです。主の十字架の贖いの業は、永遠にこれからもずっと、完全なものなのです。そのお方、救い主はこう語られたのです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(ヨハネ15:3) 私たちは、神さまの前に相応しい者とされたのです。