使徒言行録 2章29~42節
高松教会 村上貴志
ペンテコステ。麦の収穫完了の感謝の祭の日。沢山の地上の糧が与えられて人は養われ、大きな喜びを持つのです。
その同じ日。霊の糧も与えられ、それらによって私たちの思いの中に、主の御旨が解き明かされ、信仰が養われるのです。
「聖霊が降る事」私たちは、「見えないと信じる事が出来ない者」(ヨハネ20:24)なのでしょうか?
それとも、「見ないで信じる幸いな者」(ヨハネ20:29)なのでしょうか?
「幸い」山上の説教(マタイ5章)に沢山出て来る言葉です。
「心の貧しい・悲しむ・義に飢え渇く・義のために迫害される人々は、幸いである」求めれば、必ず満たされる。
でも、自分は、そこまでではないと思っている。
「柔和な・憐れみ深い・心の清い・平和を実現する人々は」そこまで、良い者では無いとも思っている。
「見たら信じるのか?見ないと信じられないのか?幸いなのか、そうでないのか?」私の内では、はっきりとは、しないのです。
この点について、神さまは、「はっきりと知って欲しい。全ての人に知って欲しい」との、意思表示をされました。
弟子たちに、聖霊を与え、「神さまの御旨を伝えるために、全ての人を、神さまの国に招くため」に、弟子たちを語らせたのです。
バベルの塔(創世記11章)に記されている事の、反対の出来事。
ペンテコステの出来事は、散らされた人を集めるために、沢山の言葉で、一つの事を「知ってもらいたい」と、語った出来事なのです。
弟子たちは、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル書3章)を引用し、伝えます。
御霊が注がれることが、終わりの日の始まりであり、神さまの救いの出来事が完成に向かっている事を、宣言したのです。
弟子たちが、力強く語りかけたこれらの言葉は、聞いた沢山の人たちの心に届きました。
届いた故に、心の中に、大きな悔い改めの思いが与えられたのです。