ルカによる福音書 1章26~38節
高松教会 村上貴志
「お言葉どおり、この身に成りますように」教会では、毎年繰り返し聞いてきた言葉です。
もし、私のところにマリアのような御旨が与えられたら。
果たして、私は「この身に成りますように」と、答えることが出来るでしょうか?
私なら、地を見つめ、「出来る事ならば、この杯を取り除いてください」と、呟く事しかできない様にも思えます。祈りでは無く。
もし、天を仰いだならば、大きな声で唾するような呪いの声を上げていたかもしれません。
神さまに向かって!受け入れる事の出来る者と出来ない者との違いは、どこに有るのでしょうか?
特別な事は、何もありません。彼女も、同じ日常を生きていたのです。
神さまのお造りになられた世界で、同じように与えられ生きているだけなのです。
であるならば「私には、分かっていない事がある。」と言う事です。
気づいていない事があるだけなのです。
では、神さまが語りかけられた事とは、何なのでしょうか?
難しい奥義だったのでしょうか?
いえ、違います。
神さまが繰り返し語られた事は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20章1節)
導いて下さる神さまへの信頼。マリアは、聞いていたのです。
あの神さまからのお言葉を。
だからと言って、マリアに安心が与えられたかと言うと、そうでは無かったかも知れません。
「どうして、そのようなことがありえましょうか」彼女は、御使いに問い返すのです。
御使いは、答えます。知らないものではなく、知っている「神さまの力が、あなたを包む」。
そして、「あなたの親類も、…」問いかければ、必ず答えて下さる。
手の届く所まで。見える所まで。
神の御手は、必ずかざされ私を導いて下さるのです。信じることができるまで、ずっと導いて下さるのです。