ルカによる福音書7章11-17節
高松教会 村上 貴志
イエスさま一行が、ナインと言う街に差し掛かった時。その一行と、異なる一行が、すれ違いました。葬送の列であります。一人息子が死んでしまった母親を、中心とした一団です。「親より先に死ぬる事は、親不孝だ」この悲しみ。衣食住。心配します。しかし、それは、申命記の規定で守られている。
では何を?【創世記 44:31】愛する息子・ヨセフを失った父ヤコブが、幼い息子ベニヤミンをも、失いかけていると思った時の情景。10人の兄がいて(安定した生活があって)も、大切な子なのです。
この子を通して、名が残るように。そこなのです。(ルツ記を思い出して下さい。ルツの生きた証を)その名を、伝えていく人は、もういないのです。誰もいないのです。失われるもの。それは、希望です。
葬送の列は、もう一つの列と出会います。イエスさまを中心とした、喜びの祝福溢れる一団です。そこには、希望があった!この温度差!?
それを、神さまは、イエスさまは、見逃されなかった。「憐れに思い」(13節)この言葉は、神・イエスさまの業にのみ用いられている極めて特別な言葉。語源は、「はらわた」身の内が痛むような思いで、ナインのやもめに向かい合われたと言うのです。主は、何をなされるのか?「泣かなくてもよい」(13節)
全ての思い悩みを、主が取り去って下さるのです。
この息子に命じられた。「起きなさい」(14節)
生活の心配は、既に、解消されている。起き上がった息子の命は、永遠では無い。肉体は、朽ちる。
何が、変わったと言うのでしょうか?
それは、この絶望的な悲しみの中に、神が!主が! 来て下さったと言う事。「神への信頼」が、返された。
「神への信頼・期待・希望」陰府に落とされたような思いに打ちひしがれる者に、陰府に下られるお方の救いの御業が、返されるのです。