マタイによる福音書9章14-17節
高松教会 村上有子
タイトルを「自己満足を見抜かれる神」と訂正した方が良いと、御言葉と向き合う中で気付きました。マタイ6章のような「偽善」をイエス様は、ここでは指摘しておられません。「神への最善」としての断食(苦行)でありました。特に、ヨハネの弟子たちは、禁欲主義的な生活を善としていました。イエス様は、断食を否定していませんし、断食して祈ることもありました。旧約聖書のエステル記では、王に呼ばれていないのに、王に直談判することを決心しました。殺されてもおかしくない行為です。しかし、ユダヤ人の救いのため決心し、それゆえ、仲間のユダヤ人たちに三日三晩の断食を願いました。これは、全身全霊集中させて祈ることです。このマタイ9章の場面は、断食の時ではなく、婚礼の時です。婚礼の客が悲しむ時ではない、と言われました。それは、イエス様が花婿であり、教会が花嫁と譬えられており、花婿がここにいるのですから、喜びの時なのです。花婿なるお方が花嫁の罪の代価として、十字架で贖いの御業を成し遂げてくださるのです。そして、神の力により復活したイエス様と同じように、信じる者に新しい命をくださるのです。新しい約束を神なるイエス様は成就してくださったのです。この新しい約束は、旧約聖書の律法と預言によって、はっきりと示されてきました。旧約の律法はひな形です。新しい本物の約束が与えられました。それが、イエス・キリスト、神の御子なる方が、来られて成就したのです。私たちに新しい命を生きることを得させてくださるという約束です。だから「新約」聖書なのです。古い布に新し布を継ぎ当てません。両方使い物のならなくなります。新しい葡萄酒は、柔軟性の無い堅くなった古い皮袋にいれません。発酵し続ける葡萄酒によって、袋は破れ、両方失います。イエス様が来られたということは、新しい時代の到来なのです。古いものは過ぎ去り… Ⅱコリント5:17。