ルカによる福音書6章43-45節
高松教会 村上 貴志
旧約聖書の冒頭。被造物の創造の記述。【創世記1:20-27】神さまが、生き物をお造りになられた。そして、それを支配=治めさせるための人間を。
人とその他の被造物には、どのような違いが有るのでしょう。異なるように思えても、心の奥底に見える「争い・憎み・嫉み・暴力」人も獣も同じ。
神さまとの関係性?【ヨハネ15章】主に繋がっていないと、実を結ぶことも無く、投げ捨てられ・火に投げ入れられて焼かれる。
山上の説教の後【マタイ5章22節】で、イエスさまは、語られます。「無神経にでてくる、この軽口。心の内に、満ちている思い。つい、出てしまう言葉」それは、いつも、心の中に満ちている言葉。「悪い実は、悪い木に成る」ということです。
しかし、【ヨハネ15章7節】では、「主に繋がっているような良い木には、良い実が、実る」のです。
良い・悪いは、産まれもったものでは無いのです。く、「主に繋がっているかどうか」 それが、「心の倉」に有る物の違いなのかもしれません。
では、何を心の倉に納めましょうか?「神さま?」それを納めたファリサイ派の人たちは?【マタイ15:16-20】「神さまを、心の倉においている」それは「神さまをダシにして、自分を心の倉に据えていた」だけ。「イエスさま」と言う人も、然り。
【第一コリント13章】お題目では、無いのです。いくら、神さま・イエスさまと叫んでも、お飾りにして、自分という像を第一にして倉の中心に据えるならば、意味の無い事なのです。【ヘブル11:27・コロサイ1:15】見えない神の姿を求めるのです。
「聖霊」【イザヤ35:5・詩編146:8-9】見えない故に、惑わされずに、求め・問いかける。声を聞こうとする。神さまの御心に。
心の倉から紡がれる言葉は、変わる事でしょう。