高松教会 村上貴志
ルカによる福音書1章5-25節
一本目の蝋燭。「預言・希望」を示す光です。
「主が来る前に」再臨ではなく、クリスマス。
旧約聖書の最後の書。マラキ書。その最後の章。3章に記されている出来事。「道を備える」使者。
「主は、突然聖所に来られる」【マラキ3:1】喜びの契約の使者」で、有ります。その出来事に、誰が、身を支えうるか?耐えうるか?今の生活を、省みるのです。自分自身、変われていない。
導きと立ち返り・悔い改め。そして、改まった、まっすぐな信仰。良い物でありますが、できれば、ザカリヤのような経験は、したくないのです。
彼は、下級司祭。「神の前に正しい人」という周りの評価。であるのに、夫婦には、こどもが与えられなかった。天地創造・人への祝福【創世記1:28】アブラハムへの約束【創世記22:17を覚えると、夫婦に子が与えられなかったと言う事は、祝福の反対。
「神さまの目から見ると」異なっている評価と、邪推されてしまう。ザワザワとした世の評価。
そのザカリヤが、神殿の奉仕。良い評価。悪い評価。心は、穏やかでは無かったでしょう。
「やっと。しかし、なぜ、今?」不信心?
ゼカリヤは、天使の声を聞きました。その声は、地上の思いではなく、天の思いです。「エリサベトは、男の子を産む」祝福の声が、告げられたのです。
ゼカリヤも、アブラハムとサラの出来事を聞いて知っていたはずなのに、信じる事ができなかった。自分の事は、自分が一番よくわかっているから。
「神さまに、見捨てられている」という自分の評価。
「主は今こそ、…」(25節)この機会が、ある。与えられる!それを、この聖書の箇所は、伝えているのです。自身の無い自分。そんな信じない者に対して与えられた、神の御子。救い。「主の日が来る前に、救いを受け入れる者」に成りたいと思います。