高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 3章1~32節
礼拝の場所が、ここにある。万人祭司の思いを抱くプロテスタント教会にとって、一人ひとりが神の器であり、主と繋がる者。家庭であっても、職場であっても、病院や施設であっても、今、私たちと同じように、主と繋がり、祈りを捧げている。大事な事は、主と祈りによる交わりを持つ事。一つとなる事。そして、各地で捧げられる個々の礼拝が、この場所・礼拝堂での礼拝と繋がっている事。どこにおいても、同じ礼拝であります。しかし、私たちの教会では、「教職が代表して礼拝を捧げますので、各自、ご家庭でお守りください」と案内しても、日曜日の朝には、必ず、どなたかが、集われている。コロナだけでなく、酷い台風に見舞われていても、集われる方がおられる。そこに、いつの時代でも変わる事のない、大切な思いが有るのだと思います。
その大切な場所のために、ネヘミヤは、エルサレムの城壁を再建しようとしました。戦争に負け城壁は壊され、敵や野盗の類にやられ放題。聖日の礼拝の時、エルサレム中の人たちが、隠れる事無く、一番良い献げ物を携えて会堂に来るのが妨げられる。
日常の生活を守る事も大切なのですが、エルサレムの民にとって最も重要な時と場所を守ために、ネヘミヤは城壁の再建を、神さまに、願ったのです。
3章には、実に多くの方が、この修復・再建に携わった事が記されております。大祭司と祭司たち。西方の長官も協力します。貴族たちも、不服ながら。娘たちも作業に参加しました。
聖所のために、礼拝のために。神さまと共に。
この思いを、全ての人が心に取戻し、それぞれの作業を、神さまに捧げたのです。
そして、城壁の再建は、一周するのです。今までは、色々な理由をつけて出来ていなかった。それが、行われた事は、大きな恵みであったのです。