高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 2章9~20節
「主の御用を行っている」その様な意識の有る中で、「見た感じは良くとも、内容・状況が悪い」という状況は、度々起こります。ネヘミヤには、王の書状と共に、護衛の兵もあった。(エズラには、無かった)「良い事ではないか。主の御用は、進んでいる!」と、思うのですが、実際は、違っておりました。ネヘミヤの行いに、異を唱える者たちが、存在したのです。アンモン人のトビヤ。トーブ=良い・YHWH=主、「良い主。主を讃美する」神さまに仕える者としての期待込められた名。彼が、妨害したのです。
しかし、主に願う者であっても、異国の力を頼っていた。以前の罪の姿のままであったのです。
ネヘミヤは、エズラと同じように三日間祈ります。定められた時、主と向かい合うのです。頼る事ができるのは、主のみなのです。祈りの中で主に委ね行動するのです。
夜が明け、人々に告げます。「もう恥ずかしいことは無い」他国の者に対してでは有りません。「神さまを信じてエルサレムを復興する」信じずに裁きを受けたイスラエル・エルサレム。悔い改めて、再び、主の御前に額づかせていただくために、恥ずかしくない歩みを持つのです。 繰り返さないように。しかし、【創8:21・出エ10:29・レビ17:7・申命17:16】罪の歩みは繰り返されます。
18節で、人々に告げられた言葉は、罪の繰り返しの中、赦して下さった神さまの御前に立った言葉。
神さまに向かい合ったネヘミヤの言葉は、希望を失っていたエルサレムの民に届きます。立ち帰り、悔い改め、祈りと讃美に基づく行動を開始する。
人は、止まっても、神さまは止まらない。【20節】
「神御自ら、行って下さる」神さまへの信頼が大切なのです。【ガラテヤ 5:1】 主が行って下さった御業によって、私たちは、新しい歩みを始めます。