高松教会 村上貴志
ルカによる福音書 11章37~54節
本日。一本目の蝋燭が灯されました。この蝋燭は、「預言・希望」を示す光です。主がお生まれになられた日を覚えて祝います。では、この救い主は、どのような人の為に、この地上に来られたのでしょうか?それは、「誰のために十字架に架かられたか?」という事でも有ります。 「小さい者のために」
貧しい人ややもめや孤児、寄留者。社会的弱者のために。苦労している人重荷を負っている人たちのために、主は働かれたのであります。生活するのに必死で、充分な事(規定に則った高価な献げ物)も律法を遵守する事も、困難である。しかし、神さまは、信じている。「清くない」と、言われようとも、一生懸命生きている。祈りを捧げている。彼らが、救われることは、憐れみ深い神さまの第一歩でもした。
では、彼らを「不十分」と、裁いた律法学者やファリサイ人たちは?彼らは、救いから最も遠い存在でした。「傲慢と貪り。」生活は、罪(神さまから離れる事)から遠ざけたかもしれませんが、心に大きな罪を負っておりました。それに気が付かない。
彼らは、自分たちが掟を守る事ができるように再解釈の規定を作るが、何故小さな者をもができるような規定にしなかったのか?目を向けなかったのか。
自らを愛する外側は整っていても、他者を愛する内側は、罪にまみれている。「あなたがたは、不幸だ。」 小さな者を罪に定めるのは、罪に陥れるのは、あなたがただからだ。 あなたがたは、神さまから、離れている。罪にまみれている。【レビ記 22:9】 こう語られた言葉を、完成されるのは、イエスさまだけなのです。それは、ファリサイ派の人たちにも、真の救いを届けるもの。守る事の出来ない掟を、完結させるのは、イエスさまのみなのです。「この人たちのために」イエスさまは、お生まれになられ、そして、十字架に掛かって下さったのです。