高松教会 村上貴志
コロサイの信徒への手紙 4章2~18節
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(2節)もうすぐ、終末の時が訪れると考えておりました。「その時のために。十分に祈って、備えの時として冷静に今の時を冷静に過ごしなさい」そう進言するのです。ただ、「祈ったから、願ったから」といって、直ぐに解決が与えられる訳では無い。
私が、それを受けるに、相応しい姿なのか?…。 今から、取り組む?「諦めないように。捨ててしまわないように。」しないといけません。
人間には、神さまの御計画が見えないのですから。
ですから見えるもの。知らされたもの。「福音と呼ばれる、良き知らせ。キリストという、見える神の奥義」を受け入れるように、努めます。
「裁きの時までに」 歯噛みしないように。しかし、強く義を求めた所で、異邦人たちは、躓きます。マタイ12章のニネベや南の女王のように、悔い改めに気付いてもらわなければ。いえ、皆、気づいている。
「神さまと共に有りたい」ひたすら思っている・祈っているのです。ただ、解決策が見当たらない。
神さまから離れる事によって犯した罪。罪の赦しのために、捧げ物は行う。(思いも含めて)けれども繰り返してしまう。 罪と赦し。 永遠の連鎖。
この現状。相手を納得させる思いは、二つしかない。
そう、諦める事を勧める事。人は、神さまと共には、歩めない。いや、そうでは無い!私達は、応える。
「私の罪の為に、代わりに、十字架に架かって下さった方が、おられる。罪の赦しを願って下さっただけではなく、甦られ、永遠の命に招き入れて下さった方がおられる。」事を、伝える。
神さまは、諦められなかった。私の事を…。
結びの言葉に記されている沢山の信仰者たちが、それを証しするのです。そして、私達も、大切な人の救いを覚えてひたすらに祈ります。