高松教会 村上有子 マタイによる福音書 5章1~12節
人の幸せの形はいろいろです。そして人はその幸いを手にして、更にそれが続くことを願い、また更に次なる幸いを求めるものです。人は幸せになりたいのです。イエス様が私たち教えておられる「幸い」は、今生きている世界の価値観からすると、真逆のように聞こえます。心は豊かであり、楽しく元気でいる方が幸せではないかと、反論したくなります。しかし、イエス様は初めに教えるのです。「心の貧しい人々は幸いです」と。私は10~20代の頃、ひたすらに自分が欲しいものを手にする、自分のしたいことをする、そして実現させていくことが幸せだと思っていました。傍から見たら順調そうに見える私の歩みでしたが、実際は、ただ好奇心のままに走り続けて、「何か」を求め続けて生きていました。欲しいものを手にするために、寝る間も惜しんで一生懸命取り組み、一つ一つ実現させていくことで、周りに認めてもらうことが、幸せだと思っていました。しかし、振り返ってみると、心の奥底には虚しさがあり、欲するものを得ても常に虚しさがつきまとっていたことに気付きました。わたしが幸せだと思っていたことは「自己実現」「自己満足」「自己顕示」であることに気付きました。「自己」を中心とすることを良しとするこの世の価値観で満足していたならば、私は教会の戸を叩くことはなかったでしょう。
25歳の時に教会に行ってみました。なんと、イエス様は待っていてくださったのです。そして、聖霊によって自分が「心の貧しい者」「悲しむべき者」であることが分かったのです。教会に足を踏み入れてから約5年かかりましたが、そのことが分かった時、洗礼を受けました。私は何も持っていない、ただ自分の欲望のために人を傷付けてきた恐ろしいほどに自己中心的な人間であることが分かりました。この罪深い自分をどうしたらいいのか苦悩しましたが、そこに解決の道をすでに用意して下さっていたイエス様を十字架の上に見たのです。心の貧しい、悲しむべき存在である私ではなく、「心の貧しい人々、悲しむ人々は幸いです」とおっしゃったイエス様が十字架にかかってくださっていたのです。このお方は、この世界の創造者、統治者、権威者の中の権威者、全ての上におられる方です。そのお方が、私を、私たちを愛して下さっているのです。その方を知ること、この方に満たされることが、真の幸いなのです。「自分は持っている」と思っている人は不幸です。イエス様のところに求めに行かないからです。「全てはイエス様から頂いた」と知る人は、幸いです。イエス様から離れないからです。そして、欠けだらけの器にイエス様に入って頂き、歩んでいく時、私たちは、この幸福の使信で教えられているように、柔和になり、正しくイエス様を知ることを切望するようになり、憐れみ深い者に、迫害をも喜ぶ者に変えられていくのです。もちろん、自分の力ではなく、聖霊の御力により、イエス様を内住する器として私たちは幸いを味わい天の御国の前味をたのしむことができるのです。本当に感謝しかありません。