高松教会 村上有子 マタイによる福音書4:23~5:2 子
昨日の新聞一面のコラムから「フランス人は他人と比較して、自分を卑下することが少ない。日本人は余計な事を語らないことを美徳とし、他人に弱さを見せたがらない…自分のふるまいが世間からどのように評価されているのかを考えながら行動する…」一般論ではあるが、言い得ている所もある。その「国の歴史、地理地形、風土、あらゆることが織りなされて、その国らしさがあるのであるから、みんな違って、みんなよい、と神様も思っておられると思う。しかし、私自身は人の評価や評判を気にしていることで、勝手に苦しんでいたりする。フランスの方々のように人と比較せずに生きることが出来たら良いな~思ったりする。今日は、「イエス様の評判」「自分の評判」から教えられたいと思う。
イエス様の評判は、うなぎのぼりである。多くの人たちが広範囲から集まってくる。それは、イエス様の評判がすこぶる良いからである。あらゆる病を癒し、一人一人に丁寧に接したであろうイエス様の歩みは、まるで「救い主がいよいよ来た」という評判にまでなっていたかもしれない。しかし、この評価に対してイエス様は、ヨハネによる福音書に記してある通りである(ヨハネ2:23~25を読みください)。彼らは、いずれ、自分に対して「十字架に付けろ」と叫ぶ群衆となることを知っておられるのである。彼らは滅びに向かっていて、救われなければならない存在であることを伝え、イエス・キリストによってのみ救われることを知らせるために、肉体の癒しの御業があるのである。そして、集まった彼らは、大切な教えを聞く機会を得る。「たましいの救い」に至る御言葉を聞くことになるのである。それが、この後に続く「山上の説教」である。
一方「私の評判」は…。イエス様に全てを捧げた者であるはずが、世間の評判は最悪である。腐った性根を隠すように外では良い人を繕っている偽善者である。クリスチャンとして、イエス様の評価を下げてしまっているが、何故か人々が集まってくる。私のために祈り、執り成し、叱咤してくれる友がいる。腐った者をも愛して捨てないでいてくださるイエス様の愛が、私を通してよく分かるのかもしれない。神学校時代、先生方から「あわれみの見本」とよく言われた(テモテへの手紙第一1:16)。このような私のために十字架にかかり、苦しまれたイエス様、今生きて共にいて下さるイエス様のために、何ができるのだろうか。そこから出る行いが主に喜ばれる奉仕となって、良き奉仕を主に捧げていきたい。そして、イエス様は素晴らしいお方、いえ、世界を統べ治めておられるにも拘わらず、あなたの側にもおられるお方なのです!と証ししていきたい。世間から悪評を受ける者であっても。