高松教会 村上貴志
ヤコブの手紙 2章14~26節
CS合同花の日礼拝・教会総会公告。礼拝は開かれる予定でした。しかし、状況により自粛を要請。
これで、良かったのでしょうか? 私たちの信仰生活の中では、「礼拝第一」は、大切な事の一つとして挙げられます。家庭での礼拝も真摯な祈りの中で同じ礼拝を守っているわけですが、異なる思い。
「義・正しさ」とは、どういう事なのでしょう。
神さまの前での、正しさ。「神さまの為さる正しさ」
そこに向かい合う私。向かい合うからには、「相応しく立たねばならない」義に応じて、義に相応しく。 「ピシッと、しなくてはならない」そう思う訳です。 しかし、「義」とは、そう言う事でしょうか?
「解説を求めます」(挙手)私のこんがらがった考えを、誰か解きほぐして下さらないでしょうか?
この事に関して、つい最近出版された「神の恵みの水路」(新教出版社)という本に、一つの解答がありました。福島の聖光学院の、聖書の授業で佐々木栄悦先生が、高校生に話された事です。(16頁)
「神の義」というのは、神と人間との正しい関係とよく言われますが、わかりにくいキリスト教用語の一つです。もう少し「ありがたい」と思うような言い方にするならば、神のもとからわたしたちのもとに恵みの水が流れ出てくるような水路ができて、恵みの水をいただけるようになる事です。
前述の「ピシッと」では、無かったのです。
わたしがするのではなくて、「神さまが、私の内につくってくださったもの」神さまが、私を通して、なされる、地上に与えられる、恵み・喜び・祝福!
いただいたものは、「行いを伴うもの」の源なのです。神さまがなされる事。私を通して。その大きな憐れみと赦しと愛を。神さまが、それ程までに人を愛して下さった事を知る事。私たちは、本日の礼拝に対する苦悩と義と愛を、知る事となるのです。