高松教会 村上貴志 ヤコブの手紙 2章 1~13節
「憐れみ」と「裁き」 これは、神さまの思いでもあり、人の思いでも、あります。人は、神さまからの大きな愛・恩寵によって養われています。ただ、これは上よりの神さまからの一方的な愛であります。人は、感謝して受け取るだけ。何かの功績で頂いたのではありません。祈っただけ。神さまが、声をかけて下さり、その事に対して小さな声を挙げただけ。
その者を、神さまは、養って下さる。 その者に、与えて下さる。故に、その頂いた物は、周りと分かち合う事が、相応しい歩みであります。
「神さまからいただいた物を、分け合う事。神さまの恵みに栄光あれ!」それで祝されたと思うのですが、時に、過ちの「裁き」への道を進む事もある。
その歩み。いつも、私たちの傍らにあります。
主の道から目を背け、自らの栄光に目を留めてしまう。(残念な事に、その事によって、私たちは、人間関係を取捨選択してしまう)引き上げてくれる人を探してしまう。(神さまより、人を求めてしまう)
そこに、大きな過ちが潜んでいたのです。
立派な身なりの人が、神さまに祝福されているわけではない。貧しい人こそ、神さまに選ばれた人である。イエスさまは、マタイ5章山上の説教で、教えられました。「心の貧しい人は、幸いである」貧しい故に、神さまとイエスさまのお姿を見ている。
「この人たちを、神さまは、選ばれた!」のです。
「立派な身なりの人たち」が、私を陥れる。
間違っておりました。周りに左右される生活。見た目に影響を受ける生活。「私にも栄光を」そう思った時に、選んでいる道は、「裁き」の道です。
「憐れみは、裁きに打ち勝つ」(13節)であります。
そこに「栄光の道」が、備えられているのです。
そのために、新しい自由な律法。「主の十字架の御業」が、私たちに与えられたのです。