高松教会 村上有子 マタイによる福音書4:18~22 漁師にとって、網は、漁師を漁師たらしめる物です。網を持たない漁師は魚を取ることができません。ですから、漁師が網を捨てるとは、漁師であることを捨てるということです。彼らは、なぜすぐに網を捨てて、イエス様に従うことが出来たのでしょうか。この場面は、まるでイエス様とペトロたちが初対面かのように簡素に記されていますが、実はそうではありません。ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、すでにイエス様に対する知識とイエス様に対するメシヤとしての期待をもっていました。ヨハネによる福音書にイエス様に出会った時の様子があります(ヨハネ1:29~)イエス様の存在が心を大きく占める中、ペトロたちは漁師として大切な網の整備をしていたわけであります。そこにイエス様が来られた。今日の箇所はそのような場面なのです。この聖書箇所を通して、私は問われました。私にとっての「網」とは、何だろうか、と。大切なもの、生活に欠かせないもの、自分を自分ならしめるもの…ふと、自らの献身の時に与えられた御言葉を思い出しました。ガラテヤの信徒への手紙2章20節です。私はキリストとともに十字架につけられ、もはや私が生きているのではなく、キリストが私にうちに生きておられるのだ、と知った衝撃を思い出しましたが、しかし、私は自分の網、自分の欲を捨てる事が出来ない生活をしてしまっています。イエス様にある幸いを味わい知っているにも拘わらず、すぐに自分の欲にもどってしまうのです。実はペトロたちも同じでした。ペトロは自分の思い描くメシヤとは違うイエス様の十字架に向かう姿に、イエス様を三度も否み、さらに、復活されたイエス様の姿をすぐには信じることも出来ませんでした。彼らは、何度も漁師へと戻っていくのです。それでも、イエス様は、彼らが変えられていくために、何度も何度も彼らを諭し、許し、愛し続けられました。その愛を受け続けて、ペテロは失敗し続けつつも、イエス様の元へと立ち返り続けて、変えられ続けたのです。 自分の「網」とは何か?今、自分がしたいことは何か?ではなく、今、イエス様に何をするようにと呼ばれているのか?を問いながら、この復活節を過ごしたいと願います。
2021
11Apr