高松教会 村上貴志 ヨハネによる福音書 20章1~10節 「見て信じた」トマスの出来事ではありません。 「見て、絶望を味わった。確信した事」です。週の朝早く。安息日の明けた日曜日の朝。マリアとペトロたちは、墓で見たのです。そこに愛する方の、主イエスの亡き骸が無い事を。想定されていた、最悪の出来事を見てしまった。人(敵)の憎しみを。 イエスさまの亡き骸を、隠す。死者に対する冒涜。 敵の憎しみは、その大きな罪をはるかに超えている。 それほどまでに、憎むのか?「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)そう願って下さったイエスさまを。 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)そう語られたイエスさまに、どうして、最後の最後まで酷い事をするのだろうか? 墓の中から、亡き骸が取り去られている事実を見て、ペトロたちは、その絶望を。見て信じた。 トマスとは、真逆であります。トマスは、信じたいという希望を自ら隠していた。それは、イエスさまによって真に希望へと変えられた。見て信じた。 神の御子が取り去られた。預言書や詩編に記されている通りの出来事が起こったのに、救い主がイスラエルに与えられたのに、残されているのは、一枚の布・亜麻布のみ。希望のしるしは無い。絶望のしるししか、残されていない。世には、神の御子が私たちの罪の為、十字架に架かられた救いの御業が満ちているのでは無かったのか? 「ヒトには、希望が無い!」のだろうか? そんな事は、無い。【20:9】まだ理解していなかっただけだから。祭司や律法学者たちとの異なる思いが、現され、それを理解するならば。「神の御業を信る。イエスさまへの希望を信じる。」大きな喜びが、与えられるのです。見て信じる。絶望を? いえ、全ての人への救いの喜びを、見て信じるのです。
2021
04Apr