高松教会 村上貴志 ヨハネによる福音書 19章1~7節 「罪をみいだせない」ピラトは、二度もそう語りました。ピラトにとっての「罪観」とは? 「罪」教会では、「神さまから離れる事」と、教えます。しかし、一般的には、「犯罪・法律・規則を破る事」だと、理解されています。ピラトは、どちらの「罪」について語ったのでしょうか? ピラトの妻は、イエスさまのことを「正しい人」(マタイ27:19)と呼びます。それは「夢で=神さまよりの啓示を受けた」と語っているのです。妻と野会話よりピラトは、「神さまとヒト」との関係性よりの「罪」を理解していたのかも知れません。彼は、社会的な事・ローマの法律に照らし合わせて、規則違反・犯罪的な事は、見出す事はできなかった。 ただ、ピラトには、立場があった。ユダヤの統治。長老や律法学者・民たちとの関係性。忖度します。 「真実」と「罪」との関係性。世の中においては、複雑なのです。 今日は、教会の暦で言えば、「棕櫚の聖日」です。イエスさまのエルサレムに入城。【ヨハネ12:13】民は、喜びの声を挙げました。そして、わずか、数日で、「イエスを十字架につけろ」と、心変わりします。同じ人たちが。「罪」とは、歴史の中で流動的なのものなのでしょうか?変わるものなのでしょうか?ピラトのように「罪を見出すことはできない」が、引き渡す者。ユダヤ人のように「罪なき者」に、罪を見出す者。二つの立場。神の前で義しい人は? 共に、神さまを見失った人たちだと思います。両者ともに、罪深い者だと思います。イエスさまは、この人たちのために、…。 いえ、その人たちは、「私たちの姿・思い」です。 イエスさまは、その私たちの罪を代わりに負われるために、十字架に架かって下さったのです。 神さまの憐れみと深い愛を、感じるのです。
2021
28Mar