高松教会 村上有子 マタイによる福音書 4章12~14節 私たちは「暗闇に住む民」であることを今日は覚えたいと思うのです。イザヤ書の預言が引用されているこの箇所は、クリスマス時期によく用いられる御言葉でもあります。イザヤが表現しているこの場所は、北の大国アッシリアに捕囚されていくイスラエル北部。ゼブルン・ナフタリの地、すなわちガリラヤ地方であり、そこに異教徒が多数移住してきました。ユダヤ人にとっては、好ましくない地になり、ここに住む人々を「暗闇に住む民・異邦人のガリラヤ」と表現したのです。イエス様の時代も変わらず、シリア・フェニキア・サマリアに囲まれ、異邦人居住者は多いまま。この地の中心的な町カファルナウムからイエス様は宣教を始められました。イザヤの預言通りに、暗闇に光が差し込んだのです。光は闇が深ければ深いほど明るく輝きます。ですが、光なるイエス様が来られても、「自分たちは『暗闇の民』ではない、自分たちは悔い改める必要のない選民である」と自負しているユダヤ人たちには、光は必要ない、いえ、光は邪魔だったのです。【ヨハネ3:19~21参照】それゆえに、ユダヤ人たちは光なるイエス様を十字架にかけてしまいました。イザヤの時代、イエス様の時代、現代、どの時代にもイエス様の語られた福音は変わりません。「悔い改めよ」その言葉は、「間違った方向を変えて正しい方へ帰りなさい」「神に立ち返りなさい」というメッセージです。しかし、自分が「暗闇に住む民」であることが分からなければ、イエス様のメッセージを理解することはできません。自分の罪の深さを知ることは難しいことです。しかし、それではなぜ、イエス様が十字架に上らなければならなかったのか?それだけ「私の罪が重く深い」ということなのですが、分からない。自分の力で自らの罪を知ることはできないのです。しかし、ある讃美歌を知り、イエス様の十字架と私の罪をきっかけになりました。讃美歌Ⅱ編58番です。「如何なれば君はかく我を愛し給うか 知るを得ず、知るはただ、罪に染みし来し方」「知るを得ず、知るはただ、主の悩みと苦しみ」「知るを得ず、知るはただ、常にそばにいます主」どうしてかは分からない。しかし、確かに神様は私という罪人を愛して、御子を十字架に見棄てられた。この十字架をしっかりと見つめて、このレントを過ごそと思うのです。
2021
14Mar