高松教会 村上貴志 テトスの手紙 3章12~15節 「信仰の友人たち」どんな人? 教会に集っている人たち。この信仰の友人たちの事を、私たちは、教会以外でどのように説明するのでしょうか?一緒にいて祈り合える。喜びも悲しみも分かち合える・担い合える。信仰的な共感がある。そう言う事でしょうか?では、どうして、そう思えるのでしょうか? それは、「イエスさまが、共にいてくださっている」と、答えるのかもしれません。キリストが、私たちを繋いでくださっている。キリストという絆が、あの人と私の間には、在る。キリストの教えに従い「互いに愛し合う事」ができる。それが、「一緒にいて祈り合える。喜びも悲しみも分かち合える・担い合える。信仰的な共感がある」と言う事かもしれません。 「神の家族」そうかも知れません。「キリストの十字架による救い」これを信じる人たちは、皆、主にある兄弟姉妹であります。「キリストの弟子である」と言う事。「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:18)この言葉に倣う者は、「信仰の友」であるのです。同労者。 キリストの言葉に従う者。全ての人に宣べ伝えて行こうと思っている人。主の贖いを信じ、キリストの十字架の元に集まる者が、信仰の友なのであります。 そして、この手紙でパウロが記しているように「わたしたちを愛している」(15節)「が」ではなく「を」!!取るに足らない者の働きに感謝して下さり、大きな愛する思いを、向き返してくださる。 どのような時にも、今を共に喜ぶ思いが与えられている。「が」であり「を」の関係。「パウロ先生」でありながら、「共にイエスさまに従う者」 「一人が行う事は、全体の働き」なのです。 イエスさまに声をかけられた弟子全てで、良き知らせを伝える。神さまの前に開かれた場所としての、そこに集う者としての歩みを送ろうと勧めるのです。
2021
21Feb