使徒言行録 25:1-12 高松教会 村上貴志 パウロへの訴え。「おもだったもの」ファリサイ派の人たちは、抜けます。律法を重んじる人たちは、異議は無かったのです。つまり、パウロに罪は、無かったのです。あれこれ言われましたが、そもそも、罪が無いのであるなら、立証することは、出来ないのは当たり前であります。しかし、強い思いが有ったのでしょう。パウロが語る、イエスさまによる福音・救いの御業が、自分たちの思いと異なっていたのでしょう。ですが、裁判官として公平な判断は、「罪を見出せない」でありました。 しかし、時に。強い思いは、妄執とでも呼ぶべき思いは、「パウロを殺せ!」と、叫び声を上げるのです。受難のキリストの時と同じように。 神さまの思いから離れ、自分たちの欲望・世の罪に引かれた人たちの思いは、自分勝手であります。 そもそも、全ては、神さまの御計画。そこに罪を見出す事は、出来ません。そして、神さまに従う人の行動は、第一コリント12章◆一つの体、多くの部分 そこに記されているように、それぞれの役割が異なっているのです。異なる部位を、知らないからといって、否定は出来ないのです。そこに罪を見出す事は出来ないのです。故に、パウロの罪を立証することは、不可能でした。いえ、神さまに御業に対する罪を立証することは、誰にも出来ないのです。 パウロは、上訴します。「皇帝の前で語らせてください」。これが、神さまの御意志でした。神さまは、世に満ちる罪の中より、最善の事を成されるのです。 明らかにされる人の罪。その為に、キリストの贖いが有りました。パウロは、この事を伝えたかった。 立証された罪は、私の罪。他者の罪ではないのです。 罪を犯さなくとも、糧は与えられている。【詩編 78:25】今の私にも、与えられている恵みです。知るものは、【コヘレト 11:1・箴言22:9】未来での祝福に期待することができるように、変えられるのです。
2020
28Jun