」
使徒言行録 21章1-16節
高松教会 村上貴志
受難節も半ばを迎えました。キリストの十字架の御業・救い。そして、その前に起こった出来事。神の御子が、神の民イスラエルから御苦しみを受けられ、それらを、受けとめられた。主は、神の御子で在られながら人の思いを持たれ、神さまからの御計画に私たちと同じような恐れを持たれ、「出来る事ならば」と、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(ルカ22:42)そう神さまに、祈られた。そして、その後に、全てを受け止めて下さり、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と、語られた。
私たちの持つ(神さまから離れた)大きな罪を、担われる厳しさを、主は知っておられた。洪水や硫黄の火や大飢饉を与えるのではなく、私たちが受けるべき咎を、イエスさまが変わって受けて下さったのです。この働きを受け入れられた時、「天使が天から現れて、イエスを力づけた。」神の御子であっても、これほどまでの支えが必要であったのです。
その事を知るパウロは、キリストの歩みに倣うのです。パウロに示された・周りの人々に示された「苦難の歩み」でありましたが、主の御業は「絶望では終わらない。必ず、希望として残される」のです。
「苦難」であっても、そこに「救いの喜びを待つ人がおられ、救いの御業があらわされるのであれば」パウロは、喜んで、その道を進むのです。
イエスさまの歩みを見ておられたから。
周りの人たちや巫女たちも、反対しました。しかし、止められても、それが、主の御業であるならば、 「主イエスの名のためならば」イエス・キリストに倣うパウロは、歩みを止めないのです。 私たちには、出来ないかもしれませんが、「主の御心が、なりますように」と、「主の名によって」祈る事は、出来るのです。