使徒言行録 20章13-38節
高松教会 村上貴志
パウロは、24節で「自分の決められた道を走り通した」と、語っています。
私たちの歩みも「自分に決められた道」なのでしょうか?
その事を、考える上で、23節には「聖霊がどこの町でもはっきりと告げて下さっています」
24節後半「主イエスからいただいた、神の恵みの福音の力」この二つの力についても、思い出さなくてはなりません。
パウロは「熱望している事を、我慢します」アジア伝道で、共に祈って支えてくれた兄弟たちに、「出来る事ならば、会いたかった」のです。
その事によって、祈り合う事が出来、励まし合うことが出来、力が増し加えられるのです。大きな力が与えられます。伝道・福音の前進に大きく役立つ寄り道です。
しかし、パウロは、エルサレムへと導かれていた。 もし、会う事が本当に必要な事であるのならば、「全て上手くいくように」して下さる。
でも、この時は、そうでは有りませんでした。忍耐の先に有る喜びもあるのです。
希望のタネは、蒔かれているのです。主の御業に、「絶望だけ」は、有り得ないのです。必ず「希望と喜び」が、与えられるのです。
パウロも、感情を押し殺す中ででも、「新しい希望のタネを蒔きました」旅の途中での再会。旧約時代、捕囚の絶望の民に、預言者を立てて、希望を伝えてきた神さまのお働きと同じでした。信仰者には「絶望だけではなく、必ず希望が与えられる」のです。
ですが、19節や22・23節のように、「陰謀」や「この身に何が起こるのか・投獄や苦難」が、待ち受けているかもしれません。いえ、パウロは、その事が、必ず起こると聖霊を通して知っていたのです。
ですが、パウロは、その道を歩み続けます。 「どんなことがこの身に起こるか、何もわかりません」(22節)でも、「走りとおす」(24節)パウロも、自分の意志を強く持って「走りとおす」のです。