使徒言行録 20章1-12節
高松教会 村上貴志
「パンを裂くため」聖餐式が、行われました。
この恵みに与るために、パウロは、熱く語ったようです。すると、一人の青年があまりも話が長いので、眠ってしまいます。そして、窓から転落して、死んでしまうのです。
パウロは、この青年の傍らに行き、抱きかかえて「騒ぐな、まだ生きている」と、語ります。何事も無かったように上に戻り、話を続けるのです。
どのような思いだったのでしょう。 ①パウロが、奇跡を行った:使徒9章のペトロのように。しかし、誰も騒ぎ立てません。誰も、疑いません。主に委ねる姿勢です。
「大いに慰められた」心に落ち着きが与えられたのです。「主は、必ず与えられる」強い信仰があったとも理解できるのです。
②眠っているだけ:マタイ9章18節でのイエスさまのお言葉です。「主は、死に打ち勝たれた方」ここにも、その御栄光が現れた。これも、「主の祝福が必ず与えられる」という、強い信仰がでしょう。
③私たちへの示し:この青年の姿は、私たちの姿を現しているのかも知れません。ゲッセマネでの祈りのように、主の働きを覚えて・待ち望んで、祈っているはずが「心は燃えても、肉体は弱い」(マルコ14:38)わずか一時も目を覚ましておくことの出来ない小さな者です。さらに、注意されても、再び同じように眠ってしまう。
「心は燃えても、肉体は弱い」のです。それでも、イエスさまは、「もうこれでいい。時が来た」と、言われ、救いの御業へと歩み始めて下いました。「悔い改めようにも、その資格すらないのではないか」そう思わざるを得ない。
しかし、パウロは、教会は、語るのです。「騒ぐな、まだ生きている」いえ、主の御業に与り、生かされたのです。主イエスが、私に代わって、十字架について下さった。「眠って・落ちて・死んだ」のは、古い私たちの姿を示すのかも知れません。