イザヤ書 53章1-12節
高松教会 村上貴志
イザヤ書53章は、「苦難の僕」と呼ばれる、救い主が与えられることを預言した箇所です。
冒頭に、不思議な言葉が記されております。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」(1節)
誰も理解できないような預言がなされるのです。
ところで「誰」とは、「誰」の事?
イスラエル周辺の王たちや国民の事であります。
他国の神は、信じる事はできない。
そして、ユダヤの人たちは、…。
700年も待ち続けました。
であるのに、…。
あまりにも他の国々では信じられないような事が現実に起こって、それを目の当たりにした時、…。
多くのユダヤの人たちも、受け入れる事ができませんでした。
それは、「主の前で育ちながら」高貴なイメージ。
自分たちの思いを越えて、素晴らしい姿を想像していたのです。
しかし、「見るべき面影はない・病いと傷み」これは、神さまから離れた人へ報いの象徴です。
思いの通りでは無かったのです。
「私たちの」これを担っておられる事を、知っていながらも、理解しようとはしない。
何故なら、ユダヤ人たちは、神さまを信じているからです。
注目の言葉です。
神さまの言葉を信じるのではなく、神さまを信じる。
神さまがなされる事を信じているのではなく、自分たちの思っている理想が与えられる事を信じている。
イザヤは、痛烈にこの当時の人々の信仰を批判するのです。
この救い主・メシアは、神さまから離れ苦しむ民の為に苦難を受けられるのに、人々は、苦しめる側に回る。ここに人の罪の大きさが現れております。
「罪の報いは、死」これを、代わって受けられるのが、「苦難の僕・救い主・イエスさま」であります。
信じる・信じない。受け入れる・受け入れない。
全ての人が、救い主のお誕生の喜びに加えられるのです。